格闘技徒然草

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★K-1 DEBUTを見て思ったこと

CSのフジテレビ721で、K-1 DEBUTという番組の再放送をやっていました。現在のトップ選手の、K-1初試合をまとめたものです。こうしてみると、ほとんどの選手は初参戦当時よりウェイトアップしてますね。現在ではスーパーヘビー級セフォーも、初めてK-1のリングに上がった時はまだクルーザー級でした。言い換えれば、肉体改造をした選手だけが生き残っているということですね。
さて、見ていく中で、佐竹雅昭選手のK-1GPデビュー戦も放送されました。93年の第1回大会で、相手はトド・”ハリウッド”・ヘイズという選手。デル・クックのアポロジム所属、11戦11勝11KO、UKF USヘビー級王者という触れ込みでしたが、ローキック有りのルールに慣れていないようで、佐竹選手のローキックの前に撃沈し、いいところがなく終わりました。強者揃いのメンバーの中で、一人だけ明らかにレベルが低かったため、ほとんどの人の記憶には残らなかったと思います。
このヘイズ選手、これ以後K-1には呼ばれることはありませんでしたが、別の舞台で2度、日本で戦っています。
まず一度目は、2年後のバーリ・トゥード・ジャパン・オープン'95。ヒクソンも参加したトーナメントに、ヘイズ選手も名を連ねてます。K-1GP出場者として、はじめてバーリ・トゥードのリングに上がったのは彼でしょう。今をときめくミルコ・クロコップの先駆者的存在・・・と言ったらさすがに大げさでしょうが。
当時はアメリカでUFCが大ブレイク。アポロジムでも、総合への対策を始めた頃だったでしょう。しかし、当時は経験を積むためのローカルMMAイベントもなく、ヘイズ選手はこれが総合デビュー戦でした。加えて、ブラジリアン柔術のバーリ・トゥードにおける勝利の方程式を、世界中の人々が解読しようと必死だった頃で、柔術家以外のレベルはまだまだ低い状態。
ヘイズは一回戦で木村浩一郎と対戦。ここで、グラップラーの木村に、ストライカーのヘイズがフロントチョークを極めて勝つという快挙を成し遂げます。準決勝の相手は、この後に行われるヒクソンvs山本宜久(現・憲尚)の勝者。当時世界最強の名を恣にしていたヒクソンに勝てば大金星です。ところが、ヘイズはヒクソンを異様に恐れていて、控え室でも「ヒクソン負けないかな」と弱気な発言。
この大会は、「ヒクソン・グレイシー『王者の真実』」というビデオに、イベントの舞台裏が収録されていますが、その中に、ヘイズがヒクソンvs山本戦を通路から観戦する様子も収められています。山本がフロントチョークをかけたシーンでは、「ゴー!ヤマモト、ゴー!」と山本を必死で応援。しかし、ヘイズの応援も届かず、山本は負けてしまいました。
すると再び弱気になるヘイズ。腕が痛くて試合出来ないと言い出します。セコンド陣は「できる」「やろう」と励ましますが、結局ヘイズはここで棄権してしまいました。誰もがうらやむヒクソンと対戦出来る権利を、みすみす放棄してしまったのです。こうして、2度目の来日でも、ヘイズは準決勝に進むことが出来ずに帰国しています。
ヘイズの3度目の来日は、なんとオリンピックでした。1998年、長野オリンピックボブスレーのアメリカ代表としてやってきたのです。前出の「王者の真実」の中でも、ヘイズは「お金を貯めてボブスレーのオリンピック代表になる。そのためにこの大会(VTJ'95)に出た」と言っていましたが、まさか本当にオリンピック代表になるとは思いませんでした。残念ながら長野五輪でも芳しい戦績は残せず、つくづく日本とは相性が良くないようでしたが、4年後のソルトレイクシティー五輪では、見事銀メダルを獲得!結果的に、第1回K-1GPに出場していた選手の中で、もっとも出世したのが彼ではないでしょうか。
あれから10年。他の選手にもそれぞれ紆余曲折がありました。その中で、未だにK-1トップファイターとして君臨しているホーストは、あらためて偉大なのだと思いました。