NHBnewsより。
http://tkj.jp/category/category_001_00001.html
別冊宝島は今月、新刊として「新日本プロレス「崩壊」の真相」を発売した。
同書では、新日の現在の経済的、人的問題のほか、衰退の経緯を探るため、過去の回想インタビューを掲載。
元新日本職員は、永田裕志vsミルコ戦に触れ「あの当時は永田にミルコを倒してもらい、それを区切りに格闘技との交流は終わらせてしまおうと思っていた。負けるとは予想もしなかった」と回想。
今となっては「永田がミルコに勝つと思っていた」なんてギャグにしか聞こえないかもしれないが、当時の状況を考えたらそれほどおかしな考えではない。
まず、ミルコの総合キャリアは、その年の8月に行われたK-1vs猪木軍での藤田戦、そしてPRIDEで行われた高田戦の2戦のみ。総合のトレーニングは藤田戦の2週間前に始めたばかりで、永田戦の時点でもキャリア4ヶ月程度。当時は現在ほど打撃優位ではなく、総合に適応出来ないキックボクサーはテイクダウンされたら何も出来ない、というのが定説だった。実際、藤田戦でもミルコは一度もタックルを切れなかった。フィニッシュとなった膝蹴りも、入ったがテイクダウンされ、藤田が上になっている状態でカットによるTKOが宣告されたもの。あのまま続いていれば藤田が勝っただろうという評価が一般的だった。高田戦も、試合途中に足を負傷した高田がひたすら寝っ転がる展開で、ミルコの総合への適応能力が試されることはなかった。ミルコが真に評価を得るようになったのは、始めてPRIDEルールで戦ったヒーリング戦以後のことだ。さらに言えば、当時のミルコはK-1ファイターとしても中堅クラスでしかなかった。永田戦当時なら、レスリングの日本トップクラスだった永田が簡単にテイクダウンして何も出来ないミルコにパンチや関節技で勝つという予想は極めて妥当なものと言える。
もし永田戦で最初のハイキックが入らずに試合が続いていたとして、永田が勝てたかどうかはわからない。けれど、もしあそこで勝っていたら、ミルコも本格的に総合に転向することはなかっただろうし、新日のその後の失態(永田vsヒョードル戦、中邑vsイグナショフ戦、中途半端に終わったアルティメット・クラッシュ、アルティメット・ロワイヤルなど)も発生せずに、今とはかなり違ったプロレス・格闘技界になっていたことだけは間違いないだろう。