格闘技徒然草

MMAを中心とした格闘技情報&観戦ブログ

★安生のSADAME〜安生道場破り事件を回顧する

すでに11年前のことになり、当時のことを知らない人も多いかと思ったので、「安生道場破り事件」について、当時の経緯をまとめてみた。本来なら去年のうちに書いておきたかったのだが・・・。
安生という選手が初めて業界のスポットライトを浴びる場所に現れたのは、94年2月のUインター一億円トーナメントの時だった。当時、Uインターはプロレス5団体のエースにトーナメントへの招待状を送ったが、唯一それに答えたのがリングスの前田。しかし、前田はトーナメントへの参戦ではなく、リングスとUインターの対抗戦を提案したため、両者の思惑はすれ違い、ついに交渉は決裂する。
その後はお決まりの罵倒合戦となるのだが、Uインター側は当時中堅クラスだった安生が「前田日明には200%勝てる」と発言し、話題を呼んだ。プロレスの世界では安生と前田の格は比較にならなかっただろうが、安生は道場でのスパーでは実力が抜けており、プロレスの隠語で言うところの「ポリスマン」役を担っていた。すなわち、外部との真剣勝負が行われる場合、安生が高田の防波堤となって他の選手の挑戦を受けるのである。実際の実力はともかく、プロレス的な序列では安生<高田であり、安生が勝てば、それは高田の勝利でもあるというわけだ。実際、Uインターイスラエル興行では、デモンストレーションで地元格闘家の挑戦を受けるのは安生の役目だった。また、藤原組時代の船木が「モーリス・スミスに勝てる日本人が一人だけいる」とトークショーのオフレコで語ったことがあったが、それも安生のことだったらしい。後に、Uインター出身の格闘家(桜庭、高山、ヤマケン、金原など)が道場で安生にしごかれたことを語っているが、業界では有名だった安生の本当の姿が初めて表舞台に現れたのはこの時だった。しかし、前田への挑戦アピールは結局流れ、この時は安生の実力が明らかになることはなかった。
それから数ヶ月。格闘技界は「なんでもあり」の格闘技イベントUFCと、そこで頭角を現したグレイシー柔術によるムーブメントが起きていた。最初こそ何のアピールもしていなかったUインターだが、94年10月の武道館大会で、ついにヒクソンと対戦交渉をしていることを明らかにする。が、交渉段階で明らかにするのは、それが上手くいっていないを意味した。敵対する相手のリングには上がらないことを信条とするヒクソンは、Uインターのビジネスには利用しがたいものだったのだ。これもやはりリングスとのトラブルの時と同じく、話題と期待を集めながらも有耶無耶のうちに消滅するだろうと、多くのファンは思っていた。
それからしばらくの間、事実上Uインターの実権を握っていた安生・宮戸と、ヒクソンの日本での窓口となっていた修斗の佐山・中村の間で、マスコミを通じた舌戦が展開される。当時のヒクソンVTJ'94で無名選手3人を秒殺しただけのキャリアしかなかったので、ギャラもまだ数百万程度であり、金銭面については全く問題はなかった。ヒクソンUインター参戦の障害となったのは、やはり「中立のリングでなければ戦わない」というヒクソンのポリシーであった。Uインターヒクソンを呼ぼうとするのは興行に利用するためという一点のみであったから、Uインター側としてもこの点は譲れなかった。両者の主張が膠着状態に陥り、ついにヒクソン側から高田との対戦についての条件が提示される。(続く)